黄金の風だより

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『その手に触れるまで』を見る:人は変わることができるのか

ついに見てきました(レンタルで)、ダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』。

 

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ダルデンヌ兄弟ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ)は言わずと知れたベルギーの名匠ですが、僕はダルデンヌ兄弟の映画が大好きです。

ハンドカメラによって撮影されるシーンは臨場感にあふれたドキュメンタリーのようで、この社会に暮らす人々の中でも様々な意味で弱かったり、つらい立場に置かれた人々に焦点をあて、この社会の問題点を浮き彫りにする作風です。

しかし、必ずしも特定のメッセージを与えるのではなく、その解釈は視聴者に委ねられている部分もあります。日本では知らない人も多いかもしれませんが、パルムドールなども受賞していることもあり、社会的な影響力も大きいかと思います。

 

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さて、そんななか、『その手に触れるまで』はどのような作品なのか、簡単に見ていきましょう。

舞台はベルギー、イスラム教を信仰し、礼拝に熱心な13歳の少年アメッドが主人公です。アメッドは学校に通っているのですが、女性の教師であるイネス先生とはうまくいきません。イネス先生は授業が終わる時に挨拶として握手を求めるのですが、アメッドにとっては女性に触れることは信仰に反する行為として受け入れることができません。

 

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ある日、イネス先生が、歌を通じてアラビア語を学ぶ授業を開催したいと言います。しかし、アメッドやアメッドが師事する町の導師は、イネス先生の考えを冒涜的であると非難します。彼らにとってイネス先生は背教者であり、背教者に対する罰は排除、「聖戦」の標的となります。そのまま導師にそそのかされ、刃物でイネス先生を傷つけようとするアメッドですが、間一髪のところでイネス先生はかわし、アメッドはその後更生施設へ送られることになります。

 

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更生施設では礼拝も続けているアメッドですが、そんななか、更生プログラムの一環で農業・畜産業を営む農家を訪れ、そこの娘であるルイーズと出会います。ルイーズと出会い徐々に更生する姿勢を見せるアメッドですが、面会に訪れたイネス先生を再度攻撃しようとたくらむなど、信仰心が強すぎて方向性を見失う点はなかなか変わりません。結局ルイーズとも、自らが信仰に対して厳格であるがゆえに上手くいかず、あるとき更生施設を飛び出してしまいます。

 

その足で向かった先は、イネス先生のもとでした。婚姻前かつイスラム教信者でないルイーズとの恋仲は、アメッドにとって背信行為であると認識され、罪の清算をしなければならないと考えました。そして、再度イネス先生を攻撃しようとイネス先生がいる建物への侵入を試みます。

 

しかし、アメッドは足を滑らせ、高い所から落ちてしまいます。子どもにとっては死ぬかもしれないという恐怖の瞬間にあって、アメッドはその場で動くことすらできません。しかしそのとき、アメッドを発見し手を差し伸べたのはイネス先生でした。泣きながらイネス先生の手を自分から握り、これまでの行為を謝罪するアメッド。そこで物語は終わります。

 

この映画がまず教えてくれるのは、何かを盲信することの問題です。今回、その題材は宗教でした。僕は特定の宗教にコミットしておらず、詳しくもないのですが、今回映画を見て感じたのは、「対話の欠如」でした。

宗教や場合によっては教会や礼拝所で信者同士が対話したりするのかもしれませんが、『その手に触れるまで』のなかではそのようなシーンはほとんどありませんでした(本来はあるのでしょうが)。また、神との対話聖典を通じてなされるのかもしれませんが、もちろんそこに双方向的なコミュニケーションはありません。こちらがその内容を解釈するしかないのです。その解釈に不安があろうと、今述べたように、対話によって解決される機会が担保されているのかどうかは定かではなく、映画の中ではむしろ大人の導師が子どものアメッドをそそのかすシーンが印象的でした。

現代社会ではテクノロジーの進歩により、即自的に様々な情報を得ることができます。しかし即自的であるがゆえにそれが吟味されることは少なく、ほとんどの情報は消費されて終わりです。そんななかで人々は十分対話できているのかというと、そうはいえないでしょう。近年の社会、政治動向を見ていても、「対話の欠如」がこの時代を特徴づけているかのようにさえみえます(国会なんて、あからさまですね)。

 

しかし、こうした絶望ではこの映画は終わりません。最後のシーンを見て私が感じたことは、「人は変わることができる」ということでした。それを伝えるため、柔軟性と将来性を持った存在として、子どものアメッドを主人公にしたのかもしれません。

ただしここでも、感想は人によってわかれるでしょう。僕も「ここまでならないと人は変われないのか」とも思いましたし、見方によっては「人は変わることができるんだ」という強いメッセージでもあります。どちらにせよ、今後、アメッドがどのように成長していくのか、再び過ちを繰り返してしまうのか、それとも、ときには身体的に他者に触れつつ、対話をしっかりとしていくのか。物語は始まったばかりなのです。

 

やはりダルデンヌ兄弟の映画はいいなと思いました。映画の物語のなかだけではなく、そのテーマはしっかりと普遍性を持ち、私たちに問いかけてくれる。もしこのブログを読んで興味を持ってくださった方がいれば、ぜひ見てほしいと思います。

『その手に触れるまで』だけでなく、『ロゼッタ』や『ある子ども』、『少年と自転車』、『息子のまなざし』もおすすめです。