黄金の風だより

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『ギルバート・グレイプ』を見る:「いい人間になりたい」という青年にどう応えるか

今回は、僕がコレクションしている洋画作品のなかから、ギルバート・グレイプを紹介します。1993年に公開されたアメリカ合衆国の映画で、アイオワ州の架空の田舎町エンドーラを舞台に据えたヒューマンドラマとなっています。

 

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主人公は、エンドーラに住むギルバート・グレイプジョニー・デップという青年です。ギルバートは、姉、妹、そして重度のハンディを抱える弟のアーニー(レオナルド・ディカプリオと、17年前に夫(ギルバートらの父)をなくして以来家を出なくなった母と町はずれにある家で暮らしています。ギルバートは次男ですが、長男が家を出てからは、町の小さな食料品店で働きながら一家を支えています。それだけでなく、重度のハンディを抱えるアーニーの面倒を見るなど、家庭内のケアの役割も引き受けています。ギルバート自身が口に出して言うことはあまりないですが、彼は心のどこかで町を出て自由に暮らしたいと願いつつも、家族の世話に手いっぱいで、余裕なく日々を過ごしています。

 

 

またエンドーラも「田舎」を絵に描いたような町(ギルバートによれば「音楽なしのダンスのような町」)で、物語の後半にバーガーショップのチェーン店ができますが、全体的な雰囲気としては衰退の一途をたどっていく形です。

そんなギルバートたちの前に、祖母と2人でトレーラーの旅をしているベッキージュリエット・ルイスがやってきます。当初はエンドーラに立ち寄る予定はなかったと思われますが、トレーラーの故障により1週間ほど町に滞在します。ベッキーは広い視野と価値観を持った素敵な女性で、ギルバートの生活に刺激を与えてくれる存在として登場します。またベッキーにとっても、弟や家族をやさしく見守りながらも、どこか影のあるギルバートは気になる存在となっていきます。そうしてギルバート、ベッキー、アーニーの交流を中心に物語が進んでいきます。

 

ここから、僕の好きなシーンをお話します。ネタバレ注意です。

 

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あるとき、ギルバートとベッキーが川辺に寝そべってこんな話をします。ベッキー「あなたが望むものは?」とギルバートに尋ねます。するとギルバートは「僕の家族に新しい家を。妹にはよい大人になってほしいし、弟には新しい脳を与えてあげたい」と答えます。

自分の望みを聞かれながらも、当然のように家族のことを考えるギルバート。日々の生活のなかで自分の望みなど考える余裕などありません。周りの友人たちや勤め先の食料品店の主人たちもいい人たちばかりなのですが、良くも悪くも変化のない、「音楽なしのダンスが続く」世界こそが、ギルバートのすべてなのです。

 

そこでベッキーは「あなた自身は?」と尋ねます。するとギルバートは「こういう話は苦手だ」といいながらもこう答えます。「いい人間になりたい」と。僕から見れば、ギルバートほど「いい青年」はいません。ハンディを抱える弟を邪険にすることもなく面倒を見て、若くして家族を支えています。そんなギルバートが、自分の置かれた状況を客観視することができず、「いい人間になりたい」という言葉を発さざるを得ない状況を思うと、なんとも言えません。

 

もちろん、BUMP OF CHICKEN「stage of the ground」の歌詞にあるように、「優しくなりたいと願う、君は誰よりも優しい人」と、ギルバートに優しく応えてあげることはできるでしょう。あるいは、その自己犠牲の精神を讃えてあげることも簡単でしょう。しかし、困っている人ほど、自分が何に困っているかどんどんわからなくなっていき、最終的には「自分はもっとよくならねば」と思い込まされてしまうのです。このシーンを見るたび、ギルバートが発した言葉を聞くたび、ギルバートのような青年がこの現代社会にも多くいることを忘れてはならないと強く感じます。

 

(その一例が、過労の問題ではないでしょうか。物質的に豊かになった先進国の現代社会で、何に追われてそんなに働くのか。BUMP「ギルド」には「人間という仕事を与えられてどれくらいだ ふさわしいだけの給料もらった気は少しもしない いつの間にかの思い違い 「仕事ではない」わかっていた それもどうやら手遅れ 仕事でしかなくなっていた」という歌詞があります。もちろん「過労」のことというよりも、「人生」それ自体が「過労」になってしまうことを指摘していると思うのですが、ギルバートのセリフの奥に、現代社会の問題を垣間見ざるを得ません。それが、この映画が名作であり普遍的であることの証なのでしょう。)

 

さて、ベッキーの繊細ながらもどこか奔放な人柄に触れて、ギルバートは少しずつ自分を見つめ直していきます。しかし、そもそもベッキーはトレーラーの故障でエンドーラに立ち寄っていたため、トレーラーが直ると旅は再開されます。そのため最終的にはギルバートとは別れなければなりません。

別れが近くなったとき、ギルバートは、自殺した父の話をベッキーにします。ギルバートによれば、彼の父は「笑いもせず、怒りもせず、無表情な人だった。最初から死んでいるみたいだった」といいます。するとベッキー「そんな人を私は知っている」といいます。そう、それはギルバートのことです。ギルバートは人当たりがよく、いつも微笑んでいる印象を受けますが、それは心からの笑みではないことを、ベッキーは見抜いているのです。

そういわれてギルバートは再び微笑みます。ですが、そのときのギルバートは、これまでの表面だけの微笑みではなく、どこかベッキーの言葉に救われているように見えました。そうしてキスを交わす2人。なんとも素敵なシーンだと思います。繊細かつ奔放なベッキーに出会って、ギルバートの視野が広がり、少しでも救われてくれればと思います。

 

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最終的にベッキーは町を出て、ギルバートは町に残り、2人は別れます。しかしラストシーンでは1年後、ベッキーたちが再び旅にやってきます。その頃、ギルバートの家族は、それぞれが一歩前に進み始めた、という状況でした。そうしてギルバートとアーニーは、ベッキーと一緒に、1年越しに旅に出るのです。

 

僕は、1年前の段階でギルバートがベッキーと町を出るのではなく、アーニーたちと一緒に暮らすギルバートのもとにベッキーがまた会いに来て、そこから再出発、というのがいいなと思いました。

 

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現状に苦しんでいる人たち、そしてそのことになかなか気づけない多くの人たちに、ベッキーのような人との出会いがあることを願って。